[INFORMATION] of [立野窯]

中野純ウェブサイトは、LinkIconhttp://www.junnakano.com/へ移転しました。
このtatenogama.comのアドレスはアーカイブとして当面残してあるものです。

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はじめに。

はじめまして。

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 はじめまして。サイトご訪問ありがとうございます。立野窯の窯主、中野です。NEWSのページ冒頭にも書きましたが、この窯は長柄町という、ちょうど千葉県の真ん中あたりにある人口8400人ほどの小さな町にあります。まわりを緑に囲まれた静かな工房で、ひとりコツコツと制作しています。作るものは、食器や花器、茶器などです。どんなものを作るのかはWORKSのページでご覧いただくとして、ここでは、制作する上でぼくが特に大事にしていることを紹介しようと思います。

 ぼくが大事にしていることは、大きく分けてふたつあります。ひとつは蹴轆轤(けろくろ)による成形、そしてもうひとつは、天然の木灰と長石だけを材料とした灰釉作りです。灰釉は樹種ごとにわけて丹念に灰作りを行い、それぞれの樹種の持ち味を生かした色合いを大切にしています。

蹴轆轤について。

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 蹴轆轤は、電動轆轤が普及する前に手回し轆轤とともに広く使われていた、足で蹴って回す轆轤です。手回し轆轤が瀬戸を中心として使われていたのに対し、蹴轆轤は豊臣秀吉による朝鮮出兵時に連行してきた陶工が持ち込んだ道具で、九州を中心として中国・四国などで使われていました。残念ながら現在では、電動轆轤に駆逐され、ほぼ、茶陶と言われる特権的な在り方で細々と残るほかのみになっています。「一般の食器は電動轆轤で、抹茶碗は蹴轆轤で」というように使い分けて制作している方もいます。パワーにおいても回転速度においても電動轆轤は蹴轆轤を圧倒しており、労せずに効率良く多くの器を作るためにはずっと便利です。ですから、電動轆轤に取って代わられるのも当然といえば当然のことではあります。技術的に難しく、単位時間あたりの制作数も少ない蹴轆轤で作るより、電動轆轤でバンバン挽いていった方が、値段も抑えられます。価格競争という点では、蹴轆轤は電動轆轤には全く適いません。更に言えば、電動轆轤ですら、100円ショップで売られるような鋳込みで大量生産というものに太刀打ちできないのですから。そうなると、蹴轆轤が「生きた道具」として生き残る道として、茶陶と言われる特権的な分野に特化してきたのも無理からぬところがあります。

 ですが、それじゃもったいないよなあ、とぼくなんかは思うわけです。なぜかというと、ぼく自身電動轆轤も使ったことはあるんですが、電動轆轤に比べると蹴轆轤の方が断然面白いからです。確かに、一日に何百回、下手すると千回以上蹴るわけなので足はパンパンになるし、やり過ぎると膝も痛くなってきます。パワーも電動轆轤のようにはないので、ちょっと粘土が多いと土殺しだけで一苦労です。また、皿物などは、蹴った瞬間の勢いでへたったりしないように気も使います。スピードもなく、数がこなせるわけでもありません。でも、それでも蹴轆轤は楽しいです。なので、ぼくは食器も花器も茶器もすべて平等に、轆轤挽きするものは蹴轆轤だけを使って制作しています。

 何が楽しいのかーーと言われると、感覚的なものなので「だって楽しいんだもん」という以外ないんです。だからすごく説明に困るのですが、あえて言葉にするとすると、「電力という異物の力に頼らず、足で蹴って手で挽くという、自分の体だけをトータルに使うなかで、次第に粘土の塊が器へと形を変えていく「不思議」を体験できることが、なによりぼくにとって楽しい」というところでしょうか。足で蹴ることで生まれるエネルギーを轆轤によって回転力に転じ、回転する粘土に今度は手をあてることで上へ挽き上げる力に再転換して粘土を挽き上げる、そのシンプルにしてダイナミックな過程を経て、ただの粘土の塊からまるでひとりでに器が生成していくかのようにするすると立ち上がってくるーーそれはぼくにとって、奇跡に近いような不思議な体験です。仏像を木から彫り出す仏師は、「自分がすることは木の中に眠る仏様を彫り出すことだけだ」というそうですが、手足だけを使って蹴轆轤で粘土を挽き上げるという作業も、「粘土の塊の中に初めからすでに潜在している器」を表に引っ張り出しているだけのような気がしてきます。

 最近は「スロー」という言葉がもてはやされていますが、電力に寄らず、人間の手足の力だけで作り上げていく蹴轆轤はまさにスローな道具です。また、天然の灰と長石だけを材料に作る釉薬もまた、スローなものと言えるかもしれません。

灰釉について。


 では次に灰釉について。灰釉は、人間がはじめに作り出したとされる、木灰を使った一番素朴な釉薬です。はるか昔、人間がまだ土器や土師器(はじき)を焼いていた頃、器に降りかかった薪の灰が土と溶け合って光沢のあるガラスのようになったのを発見して、土と灰をまぜて人為的をガラス膜を作り出すことを発明したのだといわれています。以降現代に至るまで、人間は工夫と改良を重ねながら灰と土石を調合してさまざまな釉薬を作ってきました。

 木灰自体、かつては囲炉裏や暖炉から豊富に入手できる素材として、畑の肥料や山菜のアク抜き、酒造りなど、日常生活のいろいろな場面で使われてきました。灰を各家から集めて売る、灰屋という商売まであったほどです。けれども、灰が日常生活から縁遠くなってしまった現在では、天然の灰の代わりに鉱物資源を使って近似的に調合した合成灰が安価で出回っています。この合成灰は成分も一定なので釉薬としての安定性も高く、重宝であることは確かです。

 けれども風合いということでは、天然の灰釉には合成灰釉では出せない、自然の素材ならではの味わいがあります。天然の灰には、合成灰では近似しきれない微量成分が多く含まれ、複雑さ、多様さでは比べ物になりません。そこが合成灰釉では出すことのできない、天然灰釉ならではの味わいの源になっているのだと思います。そんなわけで、ぼくは灰と長石だけを材料に灰釉を作っています。

 天然灰は天然の素材であるがゆえに、その成分は木の種類、産地、年などによっていろいろな揺れがあります。まず、植物の種類によって大きく異なります。珪酸分の多い藁灰・籾灰は釉薬を白く乳濁させますし、松や椿などは鉄分を含み還元焼成で緑色に発色させます。また、イスノキは鉄分が少なく、昔から透明釉として使われてきました。多くの木は多少の鉄分を含んでいるので緑色の発色になりますが、その緑色ひとつをとっても色合いはそれぞれに独特です。また、同じ種類の木でも、産地によって、また同じ産地でも年によって毎年微妙に成分は変わってきます。根や幹や葉などその部分部分によっても灰になった時にその成分は違ってきます。ですから、入手した灰を釉薬にしたとき、厳密に言えば発色はたとえ同じ樹種であっても、その都度微妙に違うことになります。

 そんなわけで、ぼくは単味の灰が手に入ると、その都度それを篩(フルイ)に通し、何ヶ月もかけてアク抜きをし、長石との調合テストを繰り返してベストの発色を選んで釉薬を作っています。気の遠くなるような手間がかかりますが、できるかぎりそれぞれの木の持ち味を生かすためには欠かすことのできないプロセスです。今、手元にあるのは藁灰、松灰、楢灰、椿葉灰、茶葉灰、藍灰です。それぞれ、アクの強さも抜け方も灰自体の色合いも、釉薬にする時の長石との混合割合も異なります。藁灰釉は白く乳濁する伝統的な釉薬ですし、松灰釉は味わいのある緑色に発色します。楢灰釉は松灰釉より少し明るく青みがかった発色になりますし、椿の葉だけを燃やした椿葉灰釉は、明るく品の良い緑色にあがります。また緑茶の葉を丹念に燃やして作った茶葉灰釉は、黄瀬戸のようなしっとりとした黄味を帯びた色にあがります。藍灰は藍の葉を収穫した後、茎を燃やした灰を藍作りの方に分けていただいたもので、現在水簸&アク抜き中です。どんな色にあがるのか、はたまた釉薬として適しているのか否か、まだわかりませんが楽しみです。このように、単味の灰は強い個性をもっているわけです。いわば釉薬の草木染めという感じでしょうか。もし特定の樹種の灰をお持ちの方、また灰でなくとも大量に木を処分されるという方はどうぞ御一報いただければ幸いです。どこへなりとも燃やしに行きますので。

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最後に。


 以上がぼくの器作りのおおまかなところでしょうか。季節的な流れで言うと、大体秋から冬にかけて粘土作りや灰作りなどの下仕事が多くなり、春から夏にかけて制作に集中する感じでしょうか。…………なんてウソです(笑)。確かに理想はそれなんですが、そんなにうまくいくことはまずありません。真夏だろうが真冬だろうが関係なく、個展のためにカレンダーとにらめっこしながら、轆轤から釉掛けから粘土作りから灰作り、釉薬調合まで同時進行で、朝から晩まで制作に追われてる感じです。

 なお、制作した器は、毎年個展という形で発表させていただいています。普段はショップなどでは販売していません。上に挙げたような作業を独りでこなしていると、とてもとてもそんなに数が作れず、個展向けで精一杯なんです。また、ぼくの制作のリズムとして、作ってどんどん卸していくよりは、個展に向けて集中して新作を(飯碗などの定番もありますが)練り上げていく方が性に合っているというのもありまして……。

 もちろん、ショップで販売することで知らないうちに使ってくれる人が増えていくというのもすてきなことです。ですが今のところ、個展の会場で器を手に取って見てくれた人と実際に話をするという経験が、ぼくにとってこの上なく幸せなことなんです。回を重ねる中で、前回買ってもらった器の感想を聞いたり、「今年はこんなものにチャレンジしたんですよー」とか話してみたり、逆にアイデアをもらったり。ひとつひとつ心を込めて器を作っているので、もらわれていく先がどんな人なのか、大事にしてもらえそうかということをちゃんと見ておきたいというのもあります。そういった、使ってくれる人とのリアルなコミュニケーションを重ねていきながら、器を作り、買ってもらい、生活していくという、焼き物屋として一番プリミティブな在り方を、なにより大事にしたいと思っています。

 長々と読んでいただいたみなさま、どうもありがとうございました。ご意見ご感想などいただけるとうれしいです。


2003.12.18
立野窯・中野 純